来たるべき「一つの世界」に向かって
-ティム・インゴルド『人類学とは何か』-

文=勝俣涼

イギリス・バークシャー州レディング生まれの社会人類学者ティム・インゴルド(1948-)は、2018年の著作『人類学とは何か』において、人類学者としての自身の研究・教育実践の履歴を振り返りつつ、今日の世界における「人間の生」をめぐる思索を繰り広げている。「生」がどうあるべきか、すなわち「私たちはどのように生きるべきか?」というクリティカルな問いこそが、人類学的思考の核心にあると、インゴルドは述べる。哲学とも分かち合われるだろうこの問いは、ほかならぬ人間——他の動物ではなく——によってこそ提起されるものである。

とはいえ人類学は次の点において、哲学から区別される。すなわち、人類学者は「世界の中で」その問いに関わっていく。ゆえにインゴルドは人類学を「世界に入っていき、人々とともにする哲学」(註1)と定義することになる。ところで「どのように生きるべきか」という問題は、人類学という「学」において焦点化されるものであると同時に、私たちの誰もが、人間として世界にあるかぎり直面する課題だろう。だがこの探究を進める糸口を、「世界とは何か」を明らかにし、認識論的に説明しようとする試みに見出すことはできない。ここで問題になっている「世界」とは、自然科学が対象=客体化する「自然」のようなものとはまるで異なっているからだ。むしろ、「生」をめぐる問いに直面するあらゆる人間にとって「世界」は、みずからが現に晒されている環境にほかならない。「人類学者が調査している人たちにとっても、人類学者にとっても、世界は研究対象ではなく研究の環境である」(註2)。

現代の「世界」は、グローバリゼーションの進行によって全地球的な「一つ」の経済圏・情報圏として捉えられる向きがある。そして、この一元化はたしかに現実的な状況である。だがここで、その「世界」を支配する機制が「西洋」に紐づく価値概念に基づいていることが問題になる。全地球化されたシステムは、その全面性ないし「単一性」にもかかわらず、あらゆる人間にとっての「普遍」的な存在基盤なのではない。人類学ではその研究分野としての性質上、「単一性」が忌避されてきた。代わりに叫ばれるのは、文化の多様性を強調し、「多くの世界」があるとする主張である。

しかしインゴルドは、「世界の複数性」に訴えることは誤った方向に私たちを導いてしまうと指摘する。この複数性の認識によるかぎり、グローバルな力のもたらした不平等や負債に対抗することはできない。可能性はむしろ、私たちが「一つの世界」に居住していることに基づいた実践にある。インゴルドはこれを「多種多様の異なるものからなる世界が一つであること」(註3)と表現する。これは「西洋」的なものの論理で植民地主義的に踏破される一元性とは別の原理であり、むしろそれに抵抗する身振りに結びついている。

「西洋」に連ねてインゴルドが批判的に検証するのが、「近代」が依拠してきた価値体系や論理構成である。この検証作業は、「多種多様の異なるものからなる世界が一つであること」を拠りどころに生きる糸口を見出すために、要請されている。

西洋–近代に由来するものの見方を構成する図式の一つに、「自然」と「文化」という二項対立がある。「自然」とは普遍的なもの、「文化」とは特殊なもの・個別性を指し示してきた。前者はあるものの「本性」(ネイチャー)の不変性・永続性に、後者は後天的に獲得された属性や形態の変わりやすさに結びついている。ではこのとき、人間の「本性」とは何を指すことになるのだろうか。人間を「人間存在(ヒューマン・ビーイング)」という様態において捉えるか、「人間であること(ビーイング・ヒューマン)」という様態において捉えるかによって、その「自然/本性」は別々のものになるとインゴルドは述べる(註4)。前者では人間は一つの動物種であり、後者では動物を超える存在と見られる。

インゴルドは自然と文化を、「答え」としてではなく「問い」として捉えることを提案する。自然についての問いは、人間はどのような点で類似しているのか、というものである。文化についての問いとは、人間はどのような点で異なっているのか、というものだ。探究の結果、「人間は大抵同じように〇〇をする」「この人間とあの人間は〇〇の点で異なっている」ということが見出されるかもしれない。しかしその類似や差異の根拠を、「それが人間にとって自然/本性だからだ」「それは文化的なものだからだ」という形で、つまり自然や文化を「答え」として立ててしまうと、図式としての二項対立から抜け出せなくなってしまう。

人間の自然/本性として「遺伝」的に組み込まれた能力の理想的な達成を、科学や理性といったもののうちに見出す近代の進化論的アプローチには、自然と文化の対立的理解と西洋中心主義が組み込まれている。インゴルドは言う。「「人間の進歩」と広くみなされている、この決定的にヨーロッパ中心主義的な見方は、たまたま近代の進化の神話に合致しない歴史をもつ人々の達成を脇に追いやってしまう。彼らにはできないけれど自分たちにできることを、種に対する普遍的な能力の、私たちのうちでの、より大きな達成に帰する一方で、その見方は、私たちにはできないけれど彼らにできることのすべてを、文化的伝統の特異性へと格下げする」(註5)。「文化世界の複数性」が謳われるときに危惧すべきことの一つは、そうした世界に「人間としての低級さ」を投影する超越論的視点が、暗黙のうちに持ち込まれる事態だろう。

自然と文化はまた、人間の身体と精神にあらかじめ組み込まれ、その諸様態を規定する「原因」として捉えられるかぎり、やはり先述したような「問い」と「答え」のすり替えに等しい詐術を手引きすることになる。「遺伝子」という概念が普遍的な人間存在の設計図として、人間の自然/本性を規定するとともに、習慣的な振る舞いといった文化もまた、模倣的な学習を通じて世代から世代へと受け渡される「ミーム」と呼ばれる文化形成性の情報によって規定される。こうした理路によって「人間の思考と行動の仕方についての状況説明が、まるで手品のように、その原因説明へとすり替えられてしまう」(註6)。

インゴルドは、人間集団間に同一性と差異の指標を与える「人種」と「文化」の概念の両方は、「本質主義」と「継承」の原理が結びついて作用することで、深刻な状況をもたらすと述べる。「人種」思考を取り除こうとして「文化」的多様性を強調したところで、決定的な解決にはならないのだ。「人類学者に個々の文化が存在することを主張させるような道理は、もし遺伝的に継承される変異にそれを再びあてはめてみるならば、人種が存在することへと一直線に戻ってしまうだろう」(註7)。

この循環的状況に、人類学がこれまではまり込んできた困難を看取することができる。「人類学の悲劇とは、その学の社会文化的な部門と生物物理的な部門の間の交換の条件が、狭義のダーウィニズムの用語で言い表されている進化のパラダイムによって定められたことにある」(註8)。後で触れるように、インゴルドは来たるべき人類学を、存在の生物学的側面と社会的側面とを相補関係において捉える実践として見出している。しかしその展望は、進化についてのまったく新たな思考に貫かれたものでこそあれ、ここで見たような本質主義と継承の原理に支配されるかぎりは押し開くことができないようなビジョンである。

では、私たちと似ている人々と違っている人々の間を「境界線」によって分断し、世界を領土化し、人種や文化の「差異」を「自己同一性」の指標として定義するような思考態度から自由になり、「多種多様の異なるものからなる世界が一つであること」へと入っていく手がかりはどこにあるだろうか。「共同体」の概念をインゴルドが読む仕方は、(ふつう想像されるような共同体のあり方とは反対に)「境界線」を前提としないような差異の関係へと導くだろう。すなわち、「「community(共同体)」という言葉そのものが、ラテン語のcom(「共に」)とmunus(「贈り物」)からなり、「一緒に生きること」を表すだけでなく、「与え合うこと」をも意味する。私たちが共同体に属しているということは、私たちがそれぞれ違っていて、与えるものをもっているからである」(註9)。

ところで「境界線」という「線(ライン)」については、2007年の著作『ラインズ 線の文化史』の中で、「略図」と「刊行地図」の対照的なラインを引き合いに考察されてもいる。私たちが誰かに道を案内するときに略図を描く手ぶりは、実際に自分の「歩行」する身体が繰り返し辿り、記憶している道のりを想起しながらなぞる運動的なラインである。「そのラインの「歩行」はその土地を通ってゆくあなた自身の「歩行」の軌跡を辿るものだ」(註10)。略図に描き込まれるラインは、それに「沿って」身体が進んだ道である。ゆえにそこには往々にして、表面を「横断する」境界線が引かれることがない。このことは、鉄道や行政区分を示す、点と点を結ぶ線で表面を切り分ける刊行地図と対照をなすものだ。

インゴルドの考える人類学のアプローチとは、世界「について/に対して」向けられるものではなく、世界「の中で」展開されるものだった。民族誌と人類学というしばしば同一視される分野の差異が、ここに重ねられる。他者の生「について」書くのが民族誌であるなら、他者との関係の内側で「ともにする」のが人類学の方法である。参与観察と呼ばれる手法はインゴルドにとって、「人々とともに学ぶ」ためのものであり、その実践を通じて「生きる方法を見つけるという共通の任務に他者とともに加わる」ことになる(註11)。彼のいう「関係」のあり方とは、互いの外在性を前提に働きかけ合うモデルとは異なる。むしろすべての存在は「働きかけの内側に」ある(註12)。ここには、働きかけの運動に「沿って」形づくられていくような、内在的な生の発達の様相が示されている。「多種多様の異なるものからなる世界が一つであること」の経験とは、こうした関係論的構成において生が限りなく変奏されていくプロセスであるだろう。

「人間」を分断していたあの裂け目——「人間存在(ヒューマン・ビーイング)」と「人間であること(ビーイング・ヒューマン)」の分割、人間の生物学的次元と文化的次元の裂け目——を思い起こそう。この分裂を乗り越えるような存在のあり方こそが、インゴルドの考える人類学、すなわち「人間という概念を超えていくこと」を目指す実践においてつくり出されるものだ(註13)。この乗り越えの手がかりは、本書において、「生物人類学」と「社会人類学」という2つの学の統合に見出されている。インゴルドによれば、「有機体である」ことと「社会関係をもつ」ことは〈人間〉を構成する相補的な部分にほかならず、両者は〈人間〉のうちで「一つ」になっている(註14)。

ここに出現するのは、「いのちある有機体」を「もともと他者との諸関係において構成されているもの」と見なす新しい生物学であり、あらゆる関係が網細工のように絡み合う母胎には「人間も人間以外の存在もともに含む」環境が構成されている(註15)。この絡み合いの内側に発達し変容する形式こそが「生」と呼ばれるなら、人間の生はもはや二項の対立的なモデルを前提として進化主義的に定義され、複数の世界に分断されるものではありえない。人間という概念を超えた人間は「生きていて息をする生きものとして、自らや互いをつくる」存在、すなわち「生物社会的な存在(バイオソーシャル・ビーイングス)」として、環境に晒されるだろう(註16)。こうした経験の次元においてこそ、「一つ」の世界が「多種多様の異なるもの」からなっているに違いない。

(註1)ティム・インゴルド『人類学とは何か』奥野克巳/宮崎幸子訳、亜紀書房、2020年、9頁。
(註2)同上、14頁。
(註3)同上、37頁。
(註4)同上、39頁。
(註5)同上、52頁。
(註6)同上、42頁。
(註7)同上、142頁。
(註8)同上、145頁。
(註9)同上、59頁。
(註10)ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』工藤晋訳、左右社、2014年、137頁。
(註11)前掲書『人類学とは何か』、19頁。
(註12)同上、118頁。
(註13)同上、40頁。
(註14)同上、110頁。
(註15)同上、120頁。
(註16)同上、116頁。

〈掲載日:2020年11月12日〉


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かつまた・りょう
美術批評・表象文化論。1990年生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。主な論考に、「未来の喪失に抗って——ダン・グレアムとユートピア」(2014年、『美術手帖』第15回芸術評論募集佳作)、「運動-刷新の芸術実践——エル・リシツキーとスターリニズム」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020年)など。